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トルコ地震被災者日本支援

2023年2月6日トルコ南部で大きな地震がありました

引用:時事通信
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地震規模

筑波大学 八木勇治教授によると、トルコ南東部で(アルファベットVを横にしたような形に交わる)2つの断層帯に地震が起きたということです。最初が南西から北東に伸びる東アナトリア断層帯地震でマグニチュード7.8が起き、1分かけて北東方向へ地下岩盤の破壊が広がり50キロに渡り大きく動いたとみられます。9時間後には最初の震源から100キロ北の東西に走る断層でマグニチュード7.5の地震が発生しました。この断層も40Kmに渡ってずれたと見られる。この30度の鋭角に並ぶ断層帯で短時間に大きな地震が相次いで起きることは珍しいと指摘。

*(参考)東日本大震災:マグニチュード9.0、阪神淡路大震災:マグニチュード7.3

支援を待つ人々

引用:時事通信

2月7日震災14日め。トルコとお隣シリアにも被害は及び死亡40,000人を超える規模に、負傷者もかなりの数いる。国境なき医師団を始め地震報道を受けてトルコ・シリア北西部で各国様々な支援がされています。

寄付する|日本赤十字社 (jrc.or.jp)

日本の支援

トルコ政府からの支援要請を受けいち早く日本の救助チームが(先発隊:18名)現地に到着したことが海外掲示板でも話題になっていました。高い捜査・救助技術を生かし、現地で被災者の救助活動をしています。

引用:共同

救助難航

2月7日トルコ国外からの12の救援部隊が1400人到着、8日までにさらに27チーム到着する見通しだが。被災地に移動する車両が不足している。トルコ政府は陸路によるアクセスが限られる為、ヘリや他の地域からの車両の手配を試みているという状況です。

トルコ友好の歴史

トルコ艦船沈没事故

上野動物園が開園して5年後の1887年(明治23年)皇族で陸軍軍人であった小松宮明人親王がヨーロッパ訪問の途中にトルコ・イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1889年フリゲート艦エルトゥールㇽ号が国内の反対(船の老朽化・乗組員の訓練不足など)もあったがオスマン帝国スルタン(支配者)であったアブデル・ハミト2世の使者として途中インド、東南アジア等イスラム圏の諸国に立ち寄りながら11ヵ月かけて1890年(明治26年)6月、日本にやって来ました。

この使節は明治天皇へ親書などを手渡し帰国しようとしたが、船も長旅で消耗していたこと、資金不足から物資不足が限界に達していたこと、そんな中多くの乗組員がコレラに感染してしまい留まることになりました。

ようやく9月15日やっと出港できそうになったが、船の消耗が激しいことや台風の時期であり、やり過ごすようにと日本側の勧告が出されました。トルコ側はアジアでのイスラム圏の国々に、国力を誇示したい狙いから(とどまると弱い国と思われるのを嫌っていた)それを振り切って横浜港を出港し和歌山県沖で台風の強風と高波から座礁。ひびの入った機関部への浸水が始まり水蒸気爆発が起こった。 9月16日22時半頃 船は沈没しました。600名以上の乗組員が夜の嵐の海に投げ出され多くの死者がでました。

樫野崎灯台下へ流れ着いた乗組員のうち10名が数十メートルの断崖を這い登り灯台にたどいつきました。灯台守は応急手当を行ったが言葉が違うため、何を言っているか?わかりませんでした。そこで国際信号旗を使い遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知りました。

大島村の救助活動

通報を受けた大島村(今の串本町)

住民が救援に駆け付け69名が救出されました。紀伊大島の住民たちは、台風で出漁できず蓄えもわずかだった。浴衣などの衣類・米・卵・サツマイモ・自分たちの非常用に飼っていた鶏もつぶして食事を作りけが人の看病をしたりと奮闘しました。587名は死亡又は行方不明の大惨事でした。

遭難連絡

遭難翌朝、樫野区長から大島村長の沖周(おき あまね)に伝わりました。付近を航行している船に乗り連絡の為、生存者2名が神戸へ行きました。沖村長から県を通じて日本政府に知らせがありそれを聞いた明治天皇は、可能な限り援助を行うように指示しました。遭難から十数日後日本の要請を受けたドイツ軍艦「ウオルフ」が樫野に到着し生存者達を神戸の和田岬消毒所に搬送し、収容されました。

トルコ乗組員帰路につく

当時ショッキングな事件として大々的に報じられました。全国から義損金,弔慰金が寄せられました。遭難事故から20日後、10月5日品川港から日本帝国海軍の艦船(金剛・比叡)2隻が出航し、神戸港で生存した69名の乗組員を分乗させ1891年(明治27年)1月2日にオスマン帝国イスタンブールに無事送還しました。比叡の船長:田中綱常(薩摩藩出身)はアブデル・ハミト2世から勲章を下賜されました。

事故の翌々年の1892年(明治28年)、茶人であり実業家だった山口寅次郎もこの事件の衝撃を感じた一人でした。全国を講演して歩き義損金を集めるキャンペーンを行いました。当時の青木外務大臣の提案で田中は一人イスタンブールへ渡りました。

田中が民間人でありながら事故で無くなった遺族へ送る義損金をもって訪れたことがわかるとトルコの国民から熱狂的な歓迎を受けました。数日後には皇帝に拝謁できる機会にめぐまれました。そしてそのままトルコにとどまり、今でいう貿易商(中村商店)を開き、現地の士官などに日本語や日本文化を教えました。日本の政府の高官がイスタンブール訪問の下支えをしたり尽力しました。

引用:ウキペディア・日本軍艦金剛

現在の交友関係

第二次大戦などあり両国が常に仲が良かったわけでもありませんが、現在も串本町では5年に1回亡くなられた多くの乗組員の慰霊祭が行われています。

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